新井田塗装店ヒストリー

創業者 父憲一

 創業者の憲一は新潟県新発田市(旧紫雲寺町)稲荷岡で生まれた。とても 貧しい家で長男ではあるが家に留まることはできず紫雲寺中学校卒業後東京へ集団就職し製造業で工場勤務。 2年後ケガのため退職、叔父が経営する大田区の望月塗装店に弟子入りした。3年ほど勤務した後東京の塗装店を渡り歩いたが実家から「年の離れた弟が生まれたから戻れ」とのことで泣く泣く帰郷。
1970年に2年下の弟と共に生まれ故郷の稲荷岡で創業した。

父憲一・叔父均さん・孝さん

祖父一・父憲一・叔父五郎さん

私と叔父

 当時は戸建ての住宅に塗装をすることは一般的ではなく、工務店や材木店をまわり建材に塗装することで木材を保護できることを知ってもらうことが仕事で、現場は菜種油で檜の床などを塗装することが多かったそうです。
 その後は住宅ラッシュに押され紫雲寺地区内の工務店や材木店、建設会社さんから仕事をいただき 責任感の塊のような父は廻りからの信用を得て50人ちかくの大工さんと共に地域の塗装店として活躍しました。

活気のある稲荷岡大祭 祖父と弟

 戸建ての新築塗装がほとんどで、外壁はアクリルリシンやアクリルタイルの吹き付け、内装は家具や窓枠、見切りに至るまで塗装の仕事があり目の回るような忙しさでした。
 日中は外装の塗装、やっと帰って来たと思うと晩御飯を食べ今度は内装の塗装に出かけて行きました。
 貧しかった家をなんとか盛り立てようと、両親は朝早くから夜遅くまでよく働き土曜日になるとペンキ塗りの道具で満載の車から、道具をおろし家族で食事にいくのが楽しみだった事を想いだします。

 父憲一はとても頑固なひとでしたが人間的に信頼され、友人も多く頼りにされる人物でした。妻や家族や親戚のこともとても大切にしてくれる人でした、母は父を献身的に支え建築現場でも父の事を「あなた」と呼ぶものだから、「あなたペンキ」とからかわれていたそうです。

祖母・私・弟

祖母・私・叔母

父憲一・母洋子・叔父五郎
この3人が新井田塗装店の土台を作ってくれました。

私・母洋子

 私は父憲一と母洋子の長男として生まれ子供のころは絵を描いたり、本を読んだり、仲間と野球をしたり、秘密基地を造ったりとそんな子供でした。
 地元の公立高校を卒業後、経理系の専門学校に通わせてもらい卒業後はトヨタ系の自動車ディーラーに営業職として就職しました。(経理と営業を学ぶことが家業のためになると思ったのが半分、帰るか悩んだのが半分…)
 5年6か月勤務後、25歳で家業にもどり塗装の技術を身につけるべく現場作業にあけくれました。

 1年後平成13年3月、私が26歳の時に旅行先のタイ国で父が死去、まさかとしか言いようのない状態でした。
長年父と共に家業を切り盛りしてきた母に事業を継承してもらい、父が亡き後も信頼し仕事を頼んでくださった工務店さんに応えるため、そして我々家族が生活していくため必死で塗装の仕事をしました。
母・弟・私が中心となり家族一丸で多くの地域の方にご協力を頂き、仲間も増えより多くの仕事をさせて頂けるようになりました。
 父の時代から徐々に仕事の内容が変わり、外装は吹き付けから工場で製造され塗装された窯業系サイディングへ、内装の木製の家具や窓枠はMDF(中密度繊維板)に切り替わり新築塗装の仕事は極端に減少しました。

 大手ハウスメーカーの進出により新築塗装の仕事は減少しましたが、建物の外壁や屋根を厳しい気候から塗料で守る塗替えの仕事が増加し、大手塗料メーカーのもとで塗替えの知識や技術、お客様への応対を学ばせて頂きました。

 百貨店の夜間の改装工事なども手がけさせて頂き、数店舗の工事を同時に掛け持ち寝る間も惜しみ仕事をしたこともありました。
 大きな塗装会社に勤務する叔父を頼り冬の仕事を貰うため、そして新しい技術を身に着けるため武者修行にでかけ、大型の建築物の塗装技術や内装塗装の技術はこの頃に教えて頂きました。

 父が他界した後、社業は順調に成長しているように見えましたがその先の方向性が確立できない中、平成26年8月に事業主である母が心筋梗塞により他界…
またしても試練をいただき事業を承継することになりました。

 母は文化人で花・俳句・写真・書を特に好みました。
本当に気の回る人で、いつも我々のことよりも廻りのことを心配してくれるひとでした。
父を懸命に献身的に支え、そして父に先立たれ、失意の底だった母でしたが何とか立ち直り家族のため家業のため、取引先の信頼に応えるため、地域のお役に立つために精一杯生き抜いてくれました。

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